project 亀谷長志プロフィール

1965年2月沖縄県与那原町にて5人兄弟の末っ子、4男として誕生。
自宅から海まで100メートルもなく、よく海で遊んだ。夜は波の音が子守唄。
1972年小学校2年生のときに日本本土復帰。 ドルから円に換わったのをはっきり覚えている。
5円玉と50円玉に穴が開いていて不思議な感じがした。
6年生のころは児童会長。校内お話大会で5年、6年と学校代表。 小学生のころは活発だった。
1976年与那原小学校卒業。
1979年与那原中学校卒業。3年生のとき、生徒会副会長。中学のころはよく勉強した。
1979年4月県立知念高等学校入学。3年間軟式テニス部。3年生のときの県予選はベスト4(団体)。(個人は確か16?)
仲間全員が高校からテニスを始めたとして注目された。(私以外は野球部から転向)
1982年力試しで受けたつもりの琉球銀行から入行内定。東京に行きたい気持ちと、大学進学の気持ちと、すごく悩んだ。教師のアドバイスもあり、銀行入行と大学2部入学の道を選んだ。人生最初の大きな「決断」。
高校卒業。琉球銀行入行。(今思うと18才のころからよく働いたものだ)昭和40年生まれ「新人類?」が銀行に入ってきたと、まわりが騒いでいた記憶が。
銀行入行と同時に沖縄国際大学の2部に通うが、大学は挫折。遊び心に敵わなかった。
1987年運命の出会いで結婚(職場結婚)。若かったけど、姉さん女房の協力を得て大学にもう一度通いたかった。
人生2回目の大きな「決断」。
1991年3月沖縄大学2部卒業。なんとか4年で卒業。
卒業式の日、職場の仲間が学校にお祝いに来た。胴上げまでしてもらって、恥ずかしかったけど、心から感謝の気持ちでいっぱいになった。
1992年12月証券国際部東京分室発令!正直言ってびっくりした。
地方銀行といえども沖縄県下ナンバーワンの企業、一流大学出身の行員もたくさんいるのに私を東京勤務にするとは。大袈裟だけど、この銀行はすごいと思った。(東京勤務が大抜擢と思っているのは私だけかもしれない。でも、当時の支店長には「君はテスト生だ」と言われた)。入行後9年間ずっと東京勤務第一希望と書いていてよかった。高校生のころの夢がかなった。銀行に入って(人生でも)一番うれしい出来事だった。
2000年4月銀行退職。17年間勤めた。よくがんばった。人生3回目の大きな「決断」。
理由はいくつかあるが、ひとつは、これが一番の理由だが夫婦とも東京が大好きになってしまいそのまま住み続けたくなったこと。ひとつは、銀行の使命とは何か。入行したころの銀行の姿は薄れていってしまったこと。でも、支店長にはなりたかった。自分が銀行員としてどう生きてきたか、支店長として試してみたかった。
2002年2月株式会社ラッセルマネジメントパートナー設立。業績予測経営の実践支援に特化したコンサルティング業務を展開。

琉球銀行在職中の職務

入行後2年間は本店の金庫(現金集中課)勤務。毎日数十億円の現金管理と札勘の仕事中心。
おかげで札勘は今でもすごい。縦読み、横読み、完璧。
その後約8年、3店舗で渉外(営業)、融資担当。証券国際部東京分室では約7年間「国債ディーラー」として、主に日本国債先物取引業務に携わる。金融マーケットで大きな金額を運用できたのは、貴重な体験だった。 在職中、預金勧誘優秀賞、自己啓発努力賞、特別部門(ディーリング部門)表彰等、数多くの実績を残す。